一〇世 月峯牛雪大和尚
 一〇世牛雪は、末寺の龍源寺二世、玄太寺(吉井町吉井)、松林寺(吉井町長根)の開山となっている。ただし、松林寺は天和三年(一六八三)の開山であり、明暦三年(一六五七)二月一〇日、遷化した牛雪では年代的にあわない。したがって、次期の住職一一世相朔による勧請開山である可能性が高い。また龍源寺は、師僧である先代九世壽朔の正保三年(一六四六)の開山であるが、同年八月二二日に壽朔は遷化しており、龍源二世牛雪による勧請開山としてみてよいであろう。

 また玄太寺の開山であるが、開創は慶長五年(一六〇〇)九月である。しかし、洞門寺院として、また仁叟寺の末寺として開山されたのは、開基である菅沼定利(●興院殿廣山玄太大居士)の五十回忌にあたる、慶安四年(一六五一)と思われる。なお菅沼定利の墓所は、仁叟寺にあったが、菅沼末裔の三河国新城藩(愛知県新城市)第五代藩主菅沼定用の命により、百五十回忌を兼ねて玄太寺に移された。

 牛雪代の徳川将軍は第三代家光であった。慶安二年(一六四九)八月二四日、徳川家光より仁叟寺は御朱印地を下附された。石高は二五石であり、多野藤岡地区では天台宗淨法寺(藤岡市浄法寺)の次に多い。

 なお、この朱印状は将軍家が代わるごとに発行された。明治維新となり朱印状はすべて供出され、現在は写本の一部が残されているのみである。朱印状のほか、朱印札も下附された。また朱印状を入れる漆塗の桐箱も、この当時に作製されたものである。

 また同年一一月五日には、当地の旗本である倉橋内匠頭忠勝より寄進を受けた文書が残されている。

 明暦三年(一六五七)二月一〇日、遷化。なお、同年の六月一〇日、遷化とする記録もある。