観音霊場 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
観音信仰は、観世音菩薩への信仰であり、我が国の民間信仰で普遍的かつ国民的なものである。観音信仰は、古くからあり、インド・中国・日本でも盛んである。法華経の流布とともに発達し、その一品である観世音菩薩普門品、いわゆる観音経の説く世界観にある。観世音菩薩の徳が説かれる同経は、衆生が苦悩を受けた際に、すぐに大慈悲をもって救済にあたると具体的に書かれている。衆生を救うために、様々な姿に変えて慈悲の手を差し伸べるという。そのため、六観音・三十三観音などに身を変えて、法を説く。馬頭観音・魚藍観音・子育観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音などであり、仁叟寺でも数多くの観音さまが祀られている。 とくに、八束観音寺の本尊さまであった千手観音菩薩は、仁叟寺を代表する観音像である。脇侍の六観音とともに、吉井町の重要文化財に指定されている。また新上州観音霊場、南毛観音霊場・旧坂東三郡観音霊場の各札所にも選定されており、多くの参拝者が訪れる。以下、それぞれの観音霊場について述べる。 |
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上州観音霊場 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大間々町(みどり市)の名誉町民として親しまれ尊敬された荻原好之助が、故郷群馬の平和と幸福を祈念して、「新上州観音霊場三十三カ所(現:上州観音霊場)」の霊場札所を創ることを発願し、平成九年(一九九七)に同札所の設定を決定した。信仰・健康・観光を指針とした、故郷再発見を基礎とすることが目的の、現代社会に調和した構想を実現化させたものである。
荻原好之助は上京後、艱難困苦の末、実業家として成功した。のち、多額の浄財を故郷群馬の小中学校建設費として寄進した。また、観音信仰が篤く、このたびの霊場札所の開設となった。 平成一一年(一九九九)一月に九八歳で逝去された翁の遺志を継ぎ、同年一〇月一四日、みどり市大間々町の小平の里において、新上州観音霊場三十三カ所開設の法要が修行された。ここに、同霊場は開設された。開場後一〇年近く経ったが、現在でも多くの巡礼者が訪れる霊場として賑わっている。 仁叟寺は、第十八番札所に選定された。また別格霊場として、坂東第十五番札所の高崎市白岩町の長谷寺、同第十六番札所の渋川市伊香保町水沢の水澤寺の二カ寺が選定された。ほか、特別霊場として、高崎観音として名高い高崎市石原町の慈眼院が選定をされている。 御朱印志納金は、三〇〇円。指定霊場の各寺院および事務局にて、「上州観音霊場三十三カ所」案内冊子が一部一〇〇〇円で、専用の御朱印帳が一〇〇〇円で刊行されている。事務局は、みどり市大間々町大間々三一五にあり、星野林治が任にあたっている。 以下、当霊場の札所寺院を紹介する。 |
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| 南毛観音霊場 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南毛とは、群馬県南部地域のことをいい、この場合は多野藤岡地区のことを指す。昭和五八年(一九八三)正月に、多野藤岡観光開発協議会・多野藤岡地区各仏教会支部等が中心となり選定された。 県内西毛地域でも、すでに二〇〇年ほど前に設定されたという観音霊場があった。かつての群馬郡内での「群馬郡観音霊場三十三カ所」、多胡郡・緑野郡・北甘楽郡の一部内での「坂東三郡観音霊場三十三カ所」、北甘楽郡・碓氷郡・群馬郡の一部内での「上野観音霊場三十四カ所」、といった各観音霊場があった。 また、それらをあわせ、「西上州の百観音」という観音巡りがあった。長い年月が経ち、寺運の衰退等もあり、指定霊場の場所も定かではない場所もある。今日においては、すべてを拝登することは不可能である。 その埋もれた文化の再発掘、あるいは故郷の良さの見直しなどが叫ばれている現在、多野藤岡地区の地域観光振興の一助として、同霊場が開設された。 開設当時は定例の総会を年に一回行い、役員会議や協議会は随時開催された。また、地域の観音巡りを行う大勢の参拝者で札所は賑わったという。仁叟寺でも、南毛観音霊場巡りの団体参拝旅行を企画し、行ったこともあった。しかし、現在では南毛観音霊場巡りを行う巡礼者は、極めて稀である。 仁叟寺は新上州観音霊場と同様、第十八番札所に指定をされた。御朱印志納金は、三〇〇円である。 なお事務局は、藤岡市下栗須一二四ノ五、藤岡財務事務所内にある多野藤岡観光開発協議会にある。 以下、当霊場の札所寺院および巡礼歌を紹介する。 |
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| 旧坂東三郡観音霊場 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
坂東という呼称は、今日においては関東地方のそれであり、坂東三十三観音霊場も関東全域において指定され、多くの善男善女が参拝をし、巡礼を行っている。群馬県では、水澤寺と長谷寺の二カ寺が、その霊場に指定されている。 さて、仁叟寺が指定されているこの坂東霊場は、上記のそれとは異なる。坂東とは、もともと坂の東を指すもので前述の坂東は、箱根山の東を指し関東地方の別称でもある。 仁叟寺でいう坂東とは、碓氷峠の東を指し、多胡・緑野・甘楽の三郡を指した別称である。その三郡の観音霊場の一つに、仁叟寺が二十五番札所として、指定されている。坂東の地名が、碓氷峠以東三郡を指すことが現在ではなくなったように、同霊場も、詳細な資料はもとより、参拝巡礼に訪れる人は皆無である。 当霊場は江戸時代中期に、黒熊村(吉井町黒熊)の三木廣斎が創設したと伝えられている。そのため、廣斎の菩提寺である黒熊山延命寺(吉井町黒熊)は、その一番札所に指定されている。 創設されてから、すでに二〇〇年以上の年月が経過している観音霊場で、群馬郡内での「群馬郡観音霊場三十三カ所」、北甘楽郡・碓氷郡・群馬郡の一部内での「上野観音霊場三十四カ所」と、当霊場三十三カ所をあわせ、「西上州の百観音」とよばれる観音巡りがあった。長い年月が経ち、寺運の衰退等もあり、指定霊場の場所も定かでない所もある。今日においては、すべてを拝登することは不可能である。 仁叟寺が指定された霊場としては、記録にあるものとしては最古のものである。現在、伝えられている観音御詠歌も、それ以前につくられたことから、多くの参拝巡礼者があったことは確かであろう。しかし、当寺に残されているものは、扁額一幅のみである。 扁額には、 當國二十五番 觀世音御詠歌 秋風になびく 早稲穂も 八束山 ややたのみ ある 世をあふく(仰ぐ) 羅舞(らむ) 明治癸未菊月(一八八三) 吉井山厄除看守 九十四齢北泉榮照拝書 とある。 明治癸未菊月とは、明治一六年(一八八三)九月のことであり、吉井山とは、末寺である玄太寺のことである。このことからみても、明治時代初期から仁叟寺はもちろんのこと、この地域には観音信仰が、しっかりと根付いていたことが分かる。 また同扁額隣に、「観音力」と墨書された扁額が納められている。高崎観音を建立した、井上工業創業者の井上保三郎の筆によるものである。保三郎は観音信仰篤く、霊験あらたかと評判の高い観音さまが祀られている当寺の観音堂へ、納められた。また、その施主として、同じく観音信仰篤かった当寺檀徒総代人である向井淳三の名が、同扁額裏面に墨書されている。向井淳三は、当時郡会議院議長(現在の県会議員にあたる)をつとめており、実業家の井上保三郎とも親交があった。その縁で、仁叟寺に同扁額が納められたのであろう。 |