一二世 白岸賢虎大和尚
 一一世相朔は、末寺である龍源寺三世、八束山観音寺(吉井町神保)二世、玄太寺二世、松林寺二世を、それぞれつとめているが、仁叟寺晋山の前後は不明である。

 延宝三年(一六七五)、末寺である八束山観音寺三世を経て、仁叟寺一二世として晋山した。

 開山堂の位牌に、「前永平仁叟十二代當寺二世中興白岸賢虎大和尚禪師」とある。同じ形をした位牌が隣にあり、そこには、「前永平仁叟五世當寺開山海雲存珠大和尚禪師」とある。これは、末寺である正應院(吉井町河内)のことと思われる。開山堂内には、観音寺・正應院などの位牌が安置されており、これにより賢虎は正應院の中興開山であることがわかる。五世存珠は、天正一七年(一五八九)八月二四日に遷化しているため、年代が離れているが、賢虎が正應院を再興したといえよう。正應院は、のちに廃寺となるが、長野県塩尻の名刹である西福寺一二世活潭泉澄も、当院の住職をつとめた。

 賢虎代の貞享二年(一六八五)一〇月二六日、「釈迦誕生図」および「釈迦涅槃図」の寄進を受けた。同画幅は対になっており、一一二年後の二一世豐運代の寛政九年(一七九七)四月に修復された。それぞれに施主があり、寄贈は神保の関口家、修復は神保の神保家が行っている。現在でも二月一五日の涅槃会、四月八日の降誕会では、同軸が本堂脇に掲げられ、伝統の行事を行っている。

 また、元禄四年(一六九一)六月二二日、当寺の外護者である溝口豊前守信勝が逝去する。墓碑は、当寺墓地に建立された。享年、七〇歳。戒名、智光院殿實參了心大居士。

 『寛政重修諸家譜』によると、江戸貝塚の青松寺に葬られたとあるが、後年の付け届けや墓碑の規模などからみて、長谷川讃岐守淡路守父子と同じく、仁叟寺に葬られた可能性が高いといえる。

 「天祐山月杯シン金牒」によると、「元禄九丙子天(一六九六)二月十八鳥」に退董。在山期間は約二一年。シン金は三六両三分を数え、先代の一一世相朔から続く総計は四一両となった。

 享保五年(一七二〇)四月四日、遷化。

※シンの字は