一三世 知北嶺察大和尚
 元禄九年(一六九六)二月一八日、仁叟寺一三世として晋山した。

 智北嶺察ともあるが、正確には知北嶺察である。

 末寺である玄太寺三世もつとめているが、仁叟寺晋山の前後は不明である。玄太寺住職時に、観音菩薩像を伊予国(愛媛県)より請来し、観音堂を建立したことが知られている。同観音堂では、現在も祈祷が行われ、毎年四月一八日の観音大祭は、「吉井春祭り」とよばれ多くの人々が集まる。

 元禄一一年(一六九八)八月一三日、矢田の代官小林家より、安山石製地蔵菩薩像の奉納を受ける。供養碑に銘があり、同像の施主は黒澤(小林)藤助で、亡き妻の菩提供養の為に建立された、総高三七六cmの大きな像である。

 元禄一三年(一七〇〇)には、仏具である柄炉の寄進を、神保の関口家より受ける。関口氏はまた、「厨子入十三佛」も寄進している。

 「天祐山月杯シン金牒」によると、「寶永二乙酉(一七〇五)中春四月十七日」に退董。

 在山期間はおよそ一一年。シン金は一九両三分を数え、延宝三年(一六七五)から続く総計は、六三両八分となった。

 享保九年(一七二四)一〇月一九日、遷化。

※シンの字は