一七世 明堂天察大和尚
 末寺である八束山観音寺七世を経て、延享元年(一七四四)四月八日、仁叟寺一七世として晋山。

 天察代には、寛延四年(一七五一)に経本「三千佛名經」が奉納された。全三巻の同経本は銘があり、「天祐山仁叟寺什物明堂叟代 施主 武州賀美郡帯刀邑 美澤氏」とある。賀美郡帯刀邑は、現在の埼玉県児玉郡上里町帯刀である。また巻末には、「関翁常無居士 得室妙參大姉」とあり、両菩提の追善供養のために奉納されたものである。

 「天祐山月杯シン金牒」によると、「寛延四年歳次辛未(一七五一)四月佛生日(八日)」に退董。在山期間は、ちょうど七年間。シン金は一八両を数え、延宝三年(一六七五)から続く総計は、一〇五両三分二朱となった。

 一七世天察は、退董と同年の寛延四年八月二〇日、遷化した。寛延四年正月二三日に遷化した記録もあるが、「天祐山月杯シン金牒」に、自筆で「寛延四年歳次辛未(一七五一)四月八日」退董、と記している。

※シンの字は