二〇世 月鑑賢高大和尚
 二〇世賢高は、当寺檀信徒の向井家の出身である。出家する以前の俗名は、向井孫七といった。吉井町の重要文化財に指定されている向井家文書中にも、その記述が見られる。仁叟寺歴代住職の、明治時代以前における僧侶の生家がわかり、かつ出家前の俗名がわかることは稀であり、このような例は珍しい。

 末寺である八束山観音寺一〇世をつとめ、のち仁叟寺二〇世として宝暦一〇年(一七六〇)一一月一一日、晋山。雙林寺文書「三法幢会地入院披露年月留」には、同年一一月一九日に晋山の披露を雙林寺に行っている記録がある。

 諸記録には、賢高ではなく堅高とも記されているが、正確には賢高である。

 『多野藤岡地方誌』に、「堅賢高和尚 俗名向井孫七、仁叟寺二十世住職、弟子二十余名。天明八年(一七七一)四月十三日没」、とある。

 宝暦一二年(一七六二)七月二七日の「萬代不易本末山への勤方牒」に、「仁叟寺廿代高月鑑叟」から「本山双雙林寺」へ宛てた、本山に対する諸式勤方についての記載がある。

 また、明和二年(一七六五)九月、末寺である信永院から仁叟寺に対して、燈守傳長老の件について述べている。それを受けて仁叟寺月鑑より、信州松代長国寺宛てて出されたもので、信永院に関することについての内容である。信永院のある信濃国(長野県)の僧録は、仁叟寺の本寺である雙林寺であった。松代の長国寺(長野市松代町松代)は、信州僧録所としての地位にあり、仁叟寺も長国寺との文書の往来を行っていた。信永院一一世の燈守傳住職は、同院再中興開山号を授与されており、同文書はその允可について書かれてある。

 仁叟寺文書には、信永院との往来が多く残されている。その理由として、上野国と違い一度信州僧録所である長国寺を経由することや、遠方ゆえ文書を通じた往来が一般的であったことが考えられる。「寺例」についての記述も多く(「第一六章年中行事」参照)、文書を通じた交流が行われていた。  明和七年(一七七〇)には、『無縁双紙』を書き、当時の仏事指南書も作成した。

 安永四年(一七七五)五月には、「金光最勝王経十巻および経箱」が、細谷卯平治より寄進された。

 経箱に、「爲現世安穏後生善處寄附 金光最勝王經全部十巻 上野國多胡郡吉井驛 細谷卯平治 安永四乙未年五月吉日 上野州多胡郡神保村 天祐山仁叟禪寺 月鑑代」、と記されている。

 賢高代の特筆すべき事項として、宝暦一二年(一七六二)の山門建立が挙げられる。

 賢高代に完成をみたことは相違ないが、山門建立の世代は、同五年(一七五五)三月二八日に退董した一八世智貫である。このことは、一八世から二〇世にいたる歴代住職が、山門建立に尽力をし、師僧であり発起をした智貫に、建立主の号を贈ったものと思われる。また、その際に、延宝三年(一六七五)から宝暦一〇年(一七六〇)までの約一一五年間にわたって引き継いだシン金一二〇両二朱を、山門建設資金としても使用したと思われる。

 天明八年(一七八八)四月一三日、遷化。二一世豐運は、雙林寺文書「三法幢会地入院披露年月留」に、同年五月二九日に晋山の披露を雙林寺に行っている記録があるので、賢高の住職在山期間は、およそ二八年である。

※シンの字は