二二世 靈明高天大和尚
 末寺である八束山観音寺一七世をつとめ、のち仁叟寺二二世として晋山。靈苗高天と記述された記録もあるが、靈明高天が正しい。

 雙林寺文書「三法幢地入院披露年月留」には、文化一一年(一八一四)八月二〇日に、晋山の披露を雙林寺に行っている記録がある。

 「文化三寅年(一八〇六)十一月十八日」付で、中島村の宮司の森豊後より仁叟寺高天宛ての書状が残されている。ただし、その当時はまだ二一世豐運代であるので、高天はそのころから寺務に携わっていたものと思われる。また、「文政三辰年(一八二〇)正月」と「文政四辛巳年(一八二一)七月廿日」に、それぞれ「双雙林寺御役者中」に宛てた文書が残されている。いずれも「仁叟寺高天」とあり、前者が龍源寺、後者が八束山観音寺においての結制の認可状である。ともに下書き(控)と思われ、原本は雙林寺に提出したと思われる。また、このことにより、高天は、龍源寺および観音寺において、それぞれ師僧となっていたことがわかる。

 ほか、仏具であるハツの銘に、「仁叟高天代」とある。なお、このハツは現在でも、葬儀や仏事の際に使用されている(詳細は「第一〇章文化財と寺宝」参照)。

 先代二一世豐運は、高天代の文政八年(一八二五)一月二四日に遷化した。享年、八六歳。「遷化而讀經二千部」との記述が過去帳にあり、手厚く葬ったと思われる。

 奇しくも二一世豐運遷化と時同じ、文政八年(一八二五)四月八日、遷化。後住二三世瑞林の晋山披露が、同年一一月二八日に行われていることから、遷化するまで住職をつとめていた可能性が高い。ただし、過去帳の筆跡は、同四年から二三世のものとなっており、寺務などは高天の弟子が統括していたものと推察される。在山期間は、約一一年ほどであった。

※ハツの字は