二七世 大應禪海大和尚
 天保八年(一八三七)八月二日、越後国南蒲原郡大島村字五軒場村(新潟県三条市大島)の佐藤與太郎の次男として誕生。

 光照寺一八世機參學禪に就いて、得度。のち、學禪が仁叟寺二六世として上州に入ると、弟弟子の海雲(のち仁叟寺二八世)とともに随行した。文久三年(一八六三)五月一五日、武蔵国秩父郡猪鼻村(埼玉県秩父市荒川白久)の牧洞院の住職となる。のち、元治元年(一八六四)四月二五日、緑野郡浄法寺村(藤岡市浄法寺)の戒禅寺一六世として晋山。師匠である二六世學禪が結核を患い、明治四年(一八七一)に退董し、その後住として仁叟寺二七世として晋山した。  雙林寺文書「三法幢会地入院披露年月留」には、その前年である同三年八月二四日に晋山の披露を雙林寺に行っている記録がある。學禪は、同六年(一八七三)九月一九日に、享年五〇歳で遷化した。

 明治維新の政策の一つとして地租改正があり、寺領は悉上地された。師匠であり前住の學禅は寺領の回復を図るが、病を患い念願は果たせなかったが、二七世禪海代に、おおよその寺領の回復にいたった。面積およそ六町歩余りの広大な寺領を回復にいたった功績は、特筆すべきことである。

 また、禪海は学徳優れたことでも知られる。前橋の龍海院三一世雲外白鳳と懇意であり、よくお互いの自坊を往来していた。明治一七年(一八八四)一二月一〇日に、地租改正で没収された寺領の回復を祝い、仁叟寺紀念碑を境内に建立した。揮毫は、徳川将軍宗家裔の徳川家達貴族院議長、撰文は龍海院三一世雲外白鳳である。

 明治二三年(一八九〇)には、内務省より古社寺保存法の指定を受ける。県内寺院では、天台宗長楽寺(太田市世良田町)との二カ寺のみの指定であり、御下賜金五〇円を拝受した。

 同三七年(一九〇四)より、自身の体調不良により、弟弟子であり龍源寺二四世の卍成海雲(のち仁叟寺二八世)に寺務を依頼したが、翌三八年一月二〇日、遷化。享年、六九歳。在山期間は三四年であった。

 生家は佐藤家であったが、真加部姓を名乗り、現在神保地区に在住する真加部一勅は、その末裔である。