二九世 再中興 雲巖石橋大和尚
 明治一七年(一八八四)一一月二二日、卍成海雲の長男として誕生。海雲が、慈恩寺二一世のときであった。同三二年(一八九九)三月三日、仁叟寺二七世大應禪海に就いて得度。同年四月より、雙林寺(渋川市中郷)において安居修行を行い、間島祖禪住職に随侍した。同三五年(一九〇二)九月より、東京市曹洞宗第一中學林に入学し、三八年(一九〇五)に卒業した。同三八年(一九〇五)四月一六日、永源寺住職田た宮みや嶷堂(藤岡市浄法寺)に就いて立職。同年八月三〇日、仁叟寺二八世卍成海雲の室に入り嗣法。翌三九年一〇月二日、海雲の後住として、龍源寺の二五世となった。

 翌四〇年四月から小学校の教員となり、日野村の小学校まで徒歩で通ったという。大正三年(一九一四)三月まで教員をつとめた(現在でも教え子が花祭りに仁叟寺に訪ねてくることもある)。

 大正六年(一九一七)、龍源寺において結制を行う。のち、仁叟寺二八世海雲の体調が芳しくなくなってきた同一三年(一九二四)七月二五日、仁叟寺二九世として晋山した。同年一一月二五日に、晋山式を兼ね、二八世退董式、仁叟寺開山四百年記念大法要を併せて厳修した。

 大正一一年(一九二二)から昭和一三年(一九三八)まで約一六年間、第四・第五・第七教区(多野藤岡地区)の宗務所長をつとめた。ほか、多野郡各宗協会長を昭和七年八月から同一四年五月までつとめた。このほか群馬県連合佛教会常務理事、吉井町佛教会初代会長など宗教界での要職を歴任した。また、同二一年三月一日には曹洞宗宗議会議員にも当選を果たすが、一身上の都合により、同月にその職を辞退している。

 教化にも力を注ぎ、多くの弟子を仁叟寺に受け入れ養成した。宗龍寺(明和町)、永福寺(高崎市)、東福寺・龍松寺・大林寺(神流町)、宗永寺・光徳寺・養命寺(藤岡市)、天徳寺・向陽寺(甘楽町)、龍源寺・全林寺・玄太寺(吉井町)、大中寺(栃木県下都賀郡大平町)、繁桂寺(同郡藤岡町)、龍泉院(長野県佐久市)などの師僧ともなっている。大正一五年(一九二六)四月一六日に天徳寺徒弟安藤泰道、昭和六年(一九三一)四月一六日に龍泉院徒弟木村孝順、同九年(一九三四)三月一六日に永福寺徒弟青海保男、同一一年(一九三六)四月一六日に向陽寺徒弟織田澤守山、同一三年(一九三八)四月一六日に養命寺徒弟箱守良英、同一五年(一九四〇)五月一六日に繁桂寺徒弟繁岡實秀など各師を首座とし、結制修行を数多く行った。また、吉井町神保の柿田寅雄、中里村大字魚尾(神流町魚尾)の西澤芳司、栃木県佐野市の山本石龍ら、在家から発心した者の師僧となり、得度を行っている。当時を知る古老の檀信徒は、「仁叟寺は修行僧が多くおり、賑やかであった」と話す。「しゃっきょうさん」の愛称で、檀信徒に慕われた。

 また、遷化した僧侶の導師もつとめた。玄太寺二〇世中興大壽亮遷・向陽寺二七世レイ嶽守山・同二八世泰嶽啓山・東福寺二〇世碓岳俊雄など各師の秉炬師をつとめた。

 石橋は、社会的にも広く活躍した。保護司・調停委員・民生委員・農地委員などを歴任、とくに保護司会では、群馬県の副会長もつとめた。その功により昭和二一年(一九四六)九月一三日に司法大臣表彰、同二四年一〇月三一日には法務総裁表彰を受けた。

 昭和一九年(一九四四)、東京都北区から八〇名余りの疎開学童を受け入れた。疎開学童の父代わりとして、また和尚さんとして慕われた。

 法嗣の一人である長男の渡辺忠久は、駒澤大学卒業後、龍源寺二七世に就任。のち、陸軍に徴兵され、フィリピンマニラ沖にて米軍の潜水艦攻撃を受け戦死した。享年、三三歳。法名、龍源二七世大義忠久大和尚。

 当寺の檀信徒も七七名もの戦死者を数えるが、戦局が激しさを増すなかでの寺院運営は大変であった。また現在、町指定文化財の古梵鐘は、名鐘ゆえに供出を免れた。半鐘も、地域の喚鐘として同じく供出を免れた。同二〇年八月一五日に終戦となり、その後GHQ指令による農地解放が行われた。地租改正の後、辛苦を重ねて回復した寺領は、境内地を除き悉く解放となった。その際、石橋は地主代表として農地委員となった。

 また、寺内整備にも尽力した。昭和二〇年代から三〇年代にかけて、惣門・山門・本堂・開山堂など堂宇の屋根替え工事を行った。それまでは、すべて萱葺きの屋根であった。檀信徒はもちろん地域の方々の協力を得て、葺き替え作業を行った。労力、時間、経済的にも大変であった作業ゆえ、屋根の瓦葺き工事は長年の念願であった。また、庫裏を改築し、山内外にわたって寺院整備を行った。

 昭和四一年(一九六六)二月三日、遷化。享年、八三歳。在山期間四三年は、歴代住職でも最長である。のち、仁叟寺再中興開山号および権大教師号の追贈が、本葬の際に行われた。本葬は五仏事で行われ、本寺雙林寺の石附賢道住職が秉炬師をつとめた。

 また、本葬に先立ち、本寺である雙林寺より、再中興開山号の免牘が授与された。以下、紹介する。

  免牘
   仁叟寺二十九世
   渡邊石橋
  聯燈二十九世雲巖石橋大和尚ハ、大正十三年晋住以来、實ニ四十三年道心堅固ニシテ、常ニ寺門ノ興隆ト、檀信ノ教化トニ盡シ、入ッテハ本堂庫裡山門等ノ屋根改修、全伽藍ノ改築整備ニ尽力シテ、面目ヲ一新シ、出デテハ宗務所長、宗議会議員ヲ勤メ、福祉事業ニ精進シ、ソノ芳蹟ハ、後世ニ傳ウベキモノアリ、是ニ寺門ノ棟梁、世間ノ光明タリ、コレニヨツテ、寺基盤堅固ニシテ、法輪逾ニ常轉セン、
  茲ニ、再中興ヲ免牘シテ、永クソノ勲功ヲ表彰ス、
   昭和四十一年二月三日
   本寺 最大山雙林寺五十世
   實参賢道(印)(印)