四世 莊山道巖大和尚
 四世道巖は、武田信玄の叔父とも第四子とも伝えられ、武田信綱といわれている(信綱は信玄の実弟)。信綱は、甲斐国(山梨県)常在の武将であり、当寺四世とは考え難い。しかし、道巖は武田家と関わりのある人物とみてよいであろう。

 道巖は、積極的に法輪を転じ、仁叟寺末寺である向陽寺(甘楽町天引)、信永院(佐久市望月)を開いた。両寺ともに、現在も法燈を絶やすことなく護持している。  向陽寺の寺紋は武田菱、信永院は武田氏の有力な家臣である望月家の菩提寺で、ともに武田家と縁が深い寺院である。仁叟寺晋山の時期は不明であるが、前項で述べたように天文八年(一五三九)三月二八日とみてよいであろう。

 向陽寺には、天文二三年(一五五四)一二月一三日に出された、道巖から五世存珠への印可状など、道巖の関連文書が多く残されている。印可状は、道巖直筆であり花押もある。

 「存珠公 敲禪室 其旨厳密 依実 法衣 応器 坐具 寶瓶 柱杖 白払 不遺一物 可授者也 老拙難量臨終之間 先如斯 天文廿三寅年極月十三日 莊山(花押) 付与存珠公」、とある。

 また、同年三月一五日は、開基奥平貞訓の孫(戒名、東泰禅門)が逝去し、宝篋印塔の墓石塔が建立された。以前は、奥平の矢島家墓所にあったが、現在は当寺開基墓所に移動し、安置されている。

 生島足島神社(長野県上田市)に伝わる起き請しょう文もんにみられるように、当寺檀信徒の向井・篠崎・橋爪・神保・関口・武藤家などは武田家との縁があり、同時期に上州で活躍している。武田家と仁叟寺の繋がりも、少なからずあったと思われる。

 仁叟寺山門楼上に安置されている位牌(宝暦一二年(一七六二)作と思われる)には、「四世中興莊山道巖大和尚」とあり、功績が大だったことを物語っている。
 永禄一〇年(一五六七)一月一六日、遷化。向陽寺文書によると、天正一〇年(一五八二)五月一一日、遷化となっている。
 天正一〇年は、天目山の戦いがあり、武田家が滅亡した年でもある。また、明治二四年(一八九一)に向陽寺二三世来應観道によって記された過去帳には、「当寺開山莊山道巖大和尚 永禄十年正月十一日寂 武田信玄ノ叔父」とある。